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イフじゃなく、もう一つのララランド

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https://eiga.com/movie/82024/gallery/

2018年の年末。うちの家では、年末はガキ使でも紅白でもなく、映画を家族で見るようになったのですが、今年は父と映画「ララランド」を見ました。今更感がすごいですが、ちょうどFire TV Stickを買って、テレビでもAmazon Primeが見れるようになり、見放題の中にララランドがあったので、見ることに。

「恋人と見たらダメな映画」「ラストがあんまりだった」など賛否両論の意見があったので、なかなか見ように見れなかったのですが、そんなハードルが低い中見たこの映画、個人的にはとても面白かったです。

映画を見た後、3つのブログを読んでララランドの面白さを自分なりに理解したので、簡単にまとめてみます。年末に瞑想体験ブログをnoteに書いたら1万2千字というやばい長さになったので、今回はサクッと書くように頑張りました(3000字で約1時間でした)

Another Day Of Sunから始まる、現実とは離れたララランドの世界

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https://theriver.jp/la-la-land-opening/

ララランドの冒頭は、役者たちが高速道路の上で歌い踊るミュージカルから始まります。曲名は「Another Day of Sun」

タイトルの「La La Land」には、以下の3つの意味があるようです。

  • カリフォルニア州ロサンゼルス
  • 現実離れした世界、おとぎの国
  • 現実から遊離した精神状態

「この英語の意味なに?」より

この映画はカリフォルニア州ロサンゼルスを舞台とした夢の国で男女が恋に落ち、夢を追いかけ、実現していく物語です。冒頭の渋滞した高速道路から降りる共に、観客も夢の国へと降りていきます。

見慣れたはずの、色あせた現実のLAのハイウェイでの、圧巻としか言いようのないミュージカルシーンで、映画は始まる。巨大なスクリーンは、多幸感に満ちた音楽(しかしどこか陰を感じさせる歌詞)と、様々な色彩の奔流に満たされて、一瞬にして現実を忘れ、夢の世界に連れ去られる。すでに私はこの映画の魔法にかかっていた。(中略)


だからこの映画の舞台は、現代の現実のLAではなく、古き良きLAでもなく、もうひとつのLA――映画の夢とアメリカの夢が生きている「夢の国」なのだ。私たちは、動き出した車とともに、現実のLAから、夢のLA LA LANDに降りていく。
小島監督が見たララランド

面白かったのは、映画のラストと冒頭が繋がるシーン。映画のラストは、夢を実現したミアが、高速道路から降りていき、セブのジャズバーへ立ち寄ります。冒頭と同じく、渋滞の高速道路から降りていくシーンですが、ラストのシーンは冒頭のきらめく太陽のLAではなく、もう一つの夜のLA。

これが現実を描いたLAなのか、それとも別の物語なのかはわかりませんが、最初とラストは明らかに別のLAであることがわかります。そして、最後はミアとセブが出会い、もう1つの並行世界が展開されていきます。

イフじゃなく、もう一つのララランド

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https://eiga.com/movie/82024/gallery/7/

最近、過去に戻って未来を変えるタイムリープ系の映画をよく見るようになりました。「もし〜していたらどうなっていたのか」のイフの物語。しかし、ララランドのラストシーンは、セブが「もし〜していたら」というイフの世界というよりも、2人がこうなっていたらというもう一つの平行世界のように見えます。

つまり、Another Day of Sunの世界。

この最後のシーン見ている時、ぼくは「え、どっちが現実?ラストはどっち?」とドキドキしていながら見ていました。独特な世界観を持つ不思議な映画が終わると、なんとも言えない余白のような感覚が残り、まるで不思議の国から目が冷めたかのように感じがしました。これが今までにない、この映画の印象に残る表現だったのかもしれません。

しかしそれは「あの時別の道を選んでいたら」というifというよりは、「二人が結ばれる運命だったら?」というifだった・・・と私は解釈した。
なぜなら最初に出会った日から巻き戻りが始まったけど、実際その場面は「キスしたかったけどしなかった」というのがシチュエーションではではなかったから。
なのでAではなくBを選んでいたら?というifではなく、はじめからBの運命だったら?というifだった。出会った時にキスをするような二人であったら・・・というような。

幻想シーンは起きなかった過去から始まった。そこから生まれるのは「選ばなかった未来」ではなく「起きなかった未来」だった。「もしも」とは少し違う。
LA LA LAND ラ・ラ・ランド〜ラストは選ばなかった未来か、起きなかった未来か?

コンテキストの欠如は、観客のストーリーで完結する

このララランドという映画は、他の映画とは違う独特の世界観を持ち、かつ様々なコンテキスト(文脈)が曖昧です。昔っぽいのにスマホがある時代背景、2人を取り巻く人間関係、時間が経った間の出来事など、ディティールはあまり描かれていません。

例えば、セブをバンドに誘った友人は、2人の会話からセブはあの友人のことを好いていないことがわかりますが、特にその友人が悪役で悪い部分も描かませんでした。

そう。すべての判断は観る側に委ねられているのだ。その意味で『ラ・ラ・ランド』は徹底的に、まさに徹頭徹尾、「インクルーシヴ」で「オープン」な作品なのだ。

であるがゆえに、『ラ・ラ・ランド』においては「ストーリーがない」とか「人物が描けていない」といった批判もまたまったく的外れなものとなる。この映画をめぐる様々な感想を観てみると、そのことがよくわかる。(中略)


 コンテクストを欠いたまま宙吊りにされた物語にコンテクストを与えるのは、必然的に観客自身であり、観客は、その不在のコンテクストを自分の体験で埋めることで、自分にふさわしい「結論」と「感動」と「自己肯定」を得ることになるのだ。この場面は、まさに『ラ・ラ・ランド』が体現する「オープンネス」の真骨頂と言ってもいいだろう。

チャゼル監督は、あえて(としか考えられない)、物語に形を与えず、それを明確に定義しないことで、「人生ってこういうものだよね」と押し付けられることをきらい、自分なりの「等身大の人生」を生きることを望むわれわれの現代的な感覚をあと押ししてくれる。本作に共感する人がこれ以上もなく本作に感激するのは、だからなのだ。わたしたちは、スクリーンのなかの恋人たちに共感しているのではなく、われわれ自身に共感しているのだ。

『ラ・ラ・ランド』を、擁護してみる

僕はミーハー並に映画が好きなのですが、物語の主人公が夢を追いかける中、困難が立ちふさがり、それでも諦めずに希望を持って夢に挑戦していくストーリーに、特に心惹かれます。そんな映画を見た後は、映画の彼らも頑張っていたように、自分も明日から頑張ってみようと思うのです。

今回のララランドも、いろんなシーンに共感しましたが、それは自分の人生の経験というコンテキストを踏まえた一つのララランドでした。それは観客が持つストーリーの数だけ、映画「ララランド」はいろんな太陽を見せるのでしょう。

映画を見終わった後、父は「恋愛ってこんなもんだよ」って言っていました。きっと、父から見たララランドは僕とは違ったもう一つの物語だったのだと思います。

参考記事

LA LA LAND ラ・ラ・ランド〜ラストは選ばなかった未来か、起きなかった未来か?※ネタバレあり | Rucca*Lusikka

『ラ・ラ・ランド』を、擁護してみる|WIRED.jp

小島秀夫が観た『ラ・ラ・ランド』 | 文春オンライン